心の戦跡をたどる・1

こんにちは。宇留賀瑞穂です。



今日もお越しくださり、有難うございます。



今日は4月10日、土曜日。



南の島はでいごの花燃えて咲く頃。
アカバナー(ハイビスカス)も次々咲く頃。



父と母を見送った四月。




今日は、長文です。超長文です。




あまり楽しい内容ではありません。




そう、長くつらく暗い話です。




そして最後は、そんなに暗くないです。




……………………………✴️




万人におすすめはしません。




今この4月に、書いて残そうと考えています。




土曜の休日を、なにもせず1人寝たきり、
(ステテコ大魔王こと主人を放置して)
スマホつきっきり、ブログつきっきりです。




しかし、大事です。




大事です。子々孫々に繋がっていく大事な振り返りと思っています。




とはいえ、私の個人の記事です。
ご訪問の皆様。読まない自由があります。
どうか、無理なさらないでくださいね。




スルー、スルー、OKです。




意味不明、OK、OKです。




読み進むにつれ気分がわるくなるかも知れません。その際はどうぞ、ページを閉じてくださいますよう。
不快に思われた方はお詫び致します。





整わない文章。ご容赦を。





…………………………………




母が病を得て一年、五十六歳で世を去ったのは私の高三の春でした。



父はその十五年後、七十四歳で他界しました。
母と同じように、癌を発見した時既に遅く
余命三ヶ月と医師に言われました。


父は、「癌もめぐり合わせ、縁かも知れない。
泣き言を言わず静かに時を待とう」と
長兄に話し、従容と死を迎えました。



最近戸籍の書類を次兄と読んだとき



父と母が結婚・入籍した日が、父母それぞれの命日のすぐ近くだったことを知りました。



でいごの花咲く頃、二人は夫婦になり



二十四年を夢を描いて共に暮らし



でいごの花咲く頃、
あまりに悲しい、悲しいさようならをして



さらに十五年の月日が流れて



でいごの季節に再び二人は会えて
喜びに手を取り合い



あちらの世界に旅立ったのかも知れません。



………………………………





家庭的と言えない父。




父に対し、子供の私は子供としての複雑な想いがあり、いま簡単には書けず、思い出しては手が止まってしまいます。



母は、それはもう、さっぱりとして気持ちのいい人でした。気難しい父をとても大切にし、お店をテキパキ切り盛りして、お客様に対しても誰にも分け隔てなく接する優しい人柄でした。



父の生活スタイルは……生活スタイルというものではないですね。何と言うのか。



父は自分の仕事に対して、真摯に向き合い、一生涯誠実に勤めてきた人。自分の仕事への信念を貫き通した人。社会からの称賛。人々の賞賛。人の出来ない仕事をしてきた人。




それは認めます。




しかし大酒飲み。




頻繁な飲み屋通い。怒号と暴力で家族をおびえさせ。内面を破壊してきました。
父の自分勝手な生き方。それも事実です。




いつだったか長兄、にーちゃんは「俺が小さい頃、いきなりおやじが、当時土間だった台所の流しを、怒声と共にひっくり返した」と話していました。



(父は家庭内で気に食わない何かや周囲の反応が意に沿わない時にいきなり「不機嫌な表情に変貌」し、周囲を凍りつかせました。←

←この瞬間が、幼い私は、最も恐怖でした。
今想起しても、真暗な真黒な絶望。


逃れられない絶望だった。回りの大人は誰も対処出来ず父の不機嫌にひきつってフリーズするのみ。子供たちに何が出来ただろう。



そこからは真暗な不幸なだけ。父は自分の怒りのためのみに怒り、自分の怒鳴りの欲求のために怒鳴る。常識で考えられない大音響で怒号と罵声を発し、衝動的破壊的行動をとることもあった。)



「子供だったから恐ろしかったけど、自分が大人のいま考えたら、どうして親父はわざわざ台所ひっくり返すのかな!?」
兄ちゃんは笑って話していましたが。



兄ちゃんは一生懸命、自分の心を抑え込んで、年月と共にさらに抑え込み続けてきたのだと思います。同様に章兄ちゃんも私も自分の経験の中で、やり方で、抑え込んで来ました。




どんなに社会で尊敬される地位を築いても、
認められる立派な仕事をしていても、
家庭内を暴力で精神的支配下に置き
盲従させて、病ませても、良い人物など、特権などありません。




父の恐怖は数えだすときりがありません。
そして、それらを「無かったことにする」ことは、今の私には出来ません。



オバアが話してくれました。
「ずっと昔、まっちゃん(私の叔母)がまだ結婚前のころに、○○○(父の名)は何に腹を立てたか、いきなりつかまえて殴り出して、髪の毛つかんで引きずって殴り続けて、


まっちゃんが殺される!と思って私がすがって止めても、振り払って殴る……まっちゃんは可哀想に、顔中、身体中腫れ上がらせて…」「○○○は、母親の私さえも、脅す…」



等々、悲しい目で震えながら私に話した事実を、忘れることはできません。




こういう「戦争状態、一触即発の戦地状態」の父親との時間が日常だと、子供は内部の奥の何かがおかしくなってきます。



五十代になってようやく、
「自分の幼少時代~家庭内が基本戦争状態」ではないか?と学びを始め、
その学びを今も続けています。生きるために。







(結婚後自分は、子供を育てていくにつれ「普通の人が普通に持っている『何か』が何本か足りない自分」を補うために、
主人の母・義母にお産介抱に来ていただき教えを乞い、沢山の愛情を教えてもらいました。
オバアの記憶を呼び覚まし、沢山の愛情を教えてもらいました。
まっちゃんおばさんに電話をして、沢山の愛情を教えてもらいました。)

(義母も、オバアも、まっちゃんおばさんも、「父母から良質の愛情を十分に受けて育った」方々だったのです。)




自分の家庭と全くかけ離れた「ごく普通の愛情のある家」がこの世に存在することを、幼稚園、小学校と進学、次第に知って


……テレビの中のような家庭が本当に存在すると見えてきても。
フツーの家庭。それは遠い、遥か遠くの世界のこと。
自分達が「戦地」に居るのも、普通のこと。
ピリピリ気を遣うのが当たり前。




父の生活についていくためには母は、子供を騒がせることも笑い転げる程遊ばせることも出来ません。
次第に兄も私も、オバアの家に預けられ、
オバアと暮らす時間が増えていきました。




母と離れるのは寂しいけれど、ホッとしている自分もいました。
父母の店とオバアの家は約2km離れています。



オバアの家に居る時は、父の怒号=恐怖の極致の可能性が全くない!平和!
固まっている心臓の一部がそのときだけ和らぎ、胸の定位置に「安心」していられました。




また子供の私自身は、自分の存在が母を苦しめかねないことをわかっていました。



母が私のせいで父に睨まれる。怒鳴られる。
どうすれば父が機嫌わるくならないか。
母の買ってくれたお菓子を食べていると、父が怒っているように見えて、隠して帰ってきて、隠れた場所で食べたり



自分がうっかり大きな笑い声をあげる時、ときに母が父に怯えていました。父は私の声が嫌いなのだとわかりました。
大酒飲んだ翌朝はとくに。私が笑っても泣いても(特に泣き声)みるみる父の形相が変わっていく。



父の前で泣いた瞬間「しまった!泣き止まなくては」と心の半分が悔やみ慌てます。
でも、あと半分の心の涙は、恐怖に怯えながらも止まりません。
いつもそこで、決まって、ブレーカーが落ちたように、記憶が途切れました。あとはわかりません。






父は仕事においては、大変立派な仕事を、継続してきちっとしていました。精緻な技術者であり、堅実に調べあげ積み重ねて行く研究者でした。
仕事場には沢山の賞状が飾られていました。





………………………………………





周囲を恐怖で支配していると父は気づいていたのでしょうか。そのような自分自身をどう自己観察していたでしょうか。





少なくとも今現在も私たちきょうだいにとっては、この父のもたらした負の影響を正しく知り克服しつつ生きてゆくことは、人生の重要課題です。



それは勿論楽な作業ではありませんが、重要ゆえ書けないことも含めて、ブログではなく、自分のノートに少しずつ書いて、推敲して、折に触れ掘り起こし、推敲を重ね、自分を大切に生きていこうと考え、実行しています。
「お前はだめだ!お前がわるい!」自分を非難する自分自身の声と戦いながら。




今回「心の戦跡をたどる」として記事を書くことは、このブログを始めた時からの必然であるように思います。



オバアが背中を押してくれている気もします。
ああ、そうです。オバアが応援してくれているかもしれません。




…………………………………




オバアの家で、私達きょうだいが暮らすようになっていったのは、必然の成り行きだったのでしょう。
土曜の午後、小2の章兄ちゃんと幼稚園児の私を父母の家近く経由のバスに乗せ、
オバアが心配そうに手を振って、見送ってくれる姿が、目に浮かんできます。



バスの乗車口が右側にあり、次兄と私はバスの右側の席にすぐに座り、動き出すバスの窓からオバアに手を振りました。
復帰前のこと。バスは右側通行でした。



(土日、学校の長期休み等には父母の家に連泊で泊まりました。章兄ちゃんと私が小学校高学年になる頃(徒歩で行き来できる様になった)には、父は以前よりは落ち着いて、親子の間に穏やかな空気ができて来たように思います。
その頃には母が父に対し、すこうしずつ、強くなって来ているような感じがして。力関係が。嬉しかった記憶があります。)







父母と生活を共に出来ないことは不幸ですが、
おおらかで、強くて、サバサバして(鯖鯖ではありませぬ)怒ったり笑ったりしながら一生懸命孫達を見守ってくれるオバアがいたことは、幸せです。


オバアの存在は、私達きょうだいも含めて、
たくさんの孫たちにひ孫たちに、
今も温かい光を照らしています。
オバアは私たちの光です。





長い文章を最後までお読みくださり、ありがとくございました。

(続く)